親子3代で五月人形をつくる、甲冑職人一家に聞いた「家族のかたち」
もうすぐやってくる「こどもの日」。端午の節句を祝うために、兜や五月人形を飾るご家庭も多いでしょう。しかし、なぜ五月人形を飾るのか、その意味を実はちゃんと知らない人もいるのでは。今回は、親子3代で江戸甲冑を作る加藤さんご一家に、五月人形に込められた想いや、職人として、また家族としてお互いをどう感じているかを伺いました。
初めまして、ライターの井上マサキです。筆者には9歳になる息子がいます。毎年5月が近づくと、兜飾りと鯉のぼりを飾るのが我が家の恒例行事。今年も押し入れの奥から運び出してきました。
この兜飾りは、息子の初節句の時に宮城に住む両親(息子にとっての祖父母)から贈られたもの。とはいえ、息子は特に武将に興味はなく、「この兜どう思う?」と聞いてみても「かっこいいよね〜(iPadでYouTubeのゲーム実況を見ながら)」という感じ。やれやれです。毎年出すのも大変なんだぞ。
…それにしてもこの兜飾り、何歳まで飾ったらいいんでしょう。小学校卒業まで?それともずっと…?兜を飾るのも今年で10回目だというのに、実は自分も五月人形について知らないことだらけかも。これは改めて、五月人形についてきちんと知らなくては。そのうえで、ちゃんと息子に思いを伝えなくては。
調べてみると、東京に親子3代で江戸甲冑を作り続けている加藤さんご一家がいることを知りました。ということはもしかして、五月人形を作る職人も、自分の息子に五月人形を贈っているのでは…? そこにどんな想いがあるのかも聞いてみたい! 取材を申し込むと、快く引き受けてくださいました。
【左】加藤 鞆美(かとう ともみ)
甲冑師・加藤一冑の次男として生まれ、12歳から父のかたわらで江戸甲冑の製法を学ぶ。経済産業大臣指定伝統工芸士、東京都知事指定工芸士。
【中央】加藤 美次(かとう よしつぐ)
都立工芸高校卒業後、18歳で甲冑師の世界へ。父・鞆美さんの下で修行するかたわら、彫金を学ぶなどして技術を身につける。経済産業大臣指定伝統工芸士。
【右】加藤 拓実(かとう たくみ)
中学生のころから甲冑師を志し、父・美次さんと同じ都立工芸高校で金工技法を学ぶ。卒業後、祖父と父の下で本格的に甲冑師の修行をはじめ、今年で5年目。
五月人形に込められた「我が子を守ってくれるように」という想い
五月人形が主役になる日は、5月5日の「端午の節句」。そもそもどういう経緯で、端午の節句に五月人形を飾るようになったのでしょうか。
鞆美「最初は武家の習慣だったんです。5月はそれまで仕舞っていた甲冑を虫干しするのにちょうど良い季節だから、風を通すために鎧兜を表に飾っていたんですね」
武家にとって鎧兜は、自分の身を守る大切な装備。表に鎧兜が飾ってあると、この家は男の子が生まれたとわかるわけです。それがいつしか「我が子を守ってくれるように」という願いを込めて、鎧兜が飾られるようになったといいます。5月初旬はちょうど季節の変わり目(節句)であり、十二支を日付に割り振った昔の暦で5月最初の午(うま)の日を表す「端午」から、「端午の節句」と呼ばれるようになりました。
しかし、原寸大の鎧兜を表に出していれば、雨が降った時など片付けに困ります。江戸時代になると鎧兜をミニチュア化して、屋内に飾るようになったそう。
美次「江戸時代になると、町民も武家を真似て鎧兜を飾るようになりました。といっても、高価なものは手に入らないので、紙や木で鎧兜を作って飾っていたみたいですね」
こうして広く習慣として根付いた五月人形は、生まれてきた男児一人ひとりの「守り神」的な存在。そのため、親のお下がりはNGなのだそう。
鞆美「五月人形には『我が子を守ってくれるように』という願いが込められています。親のものを子どもにあげると、親自身のお守りがなくなってしまうのです。兄弟が生まれたら、1つずつ用意しないといけません」
美次「雛人形はお嫁に行く時に持たせると言いますけど、五月人形はその発想がないですよね。守り神ですから、子供が成長したらおしまいというわけではなく、本来は何歳になっても飾るもの。とはいえ、子どもがある程度大きくなると、親が出したり片付けたりを面倒くさがってしまう(笑) 気持ちはわかりますけどね」
職人を目指すきっかけになった、父手作りの江戸甲冑
拓実さんが生まれたのは、美次さんが31歳の時。美次さんは拓実さんの初節句に、自らが手かげた江戸甲冑を贈ります。加藤さん一家にとって大切な思い出の品でもある、その江戸甲冑を見せてもらいました。
美次「18歳でこの世界に入って覚えたことや、持てる技術を全部注ぎ込みました。こういう仕事をしている以上、この世に1つしかないものを作らないと意味がないですから」
鞆美「これは鹿児島神宮が所有する島津忠久を模した鎧でね。本物は色が赤なんですよ」
美次「子どもの顔を見て、何色がいいかな?って、イメージを膨らませたんですよね」
拓実「僕の顔が青かったってこと?」
美次「青二才だなってこと(笑)」
島津忠久を選んだ理由は、正面から見た時の笠錏(かさじころ:後頭部から首廻りを保護する部分)と鍬形(くわがた:兜の前部に付ける2枚の板)のバランスがちょうど良かったから。本業のかたわら、1カ月ほどかけて制作したのだそう。
美次「下にいくほど青が淡くなっていくのは、匂縅(においおどし)と呼ばれる様式です。反対に濃くなっていくのが裾濃縅(すそごおどし)。このころ、個人的に匂縅が好きだったんですよね。他にもなるべく本物の作り方に近づけるよう作っているので、結構手間がかかっているんですよ」
鞆美「鎧は美次がこしらえて、私は両脇に置く弓と太刀をこしらえてね。鎧が実物の3分の1だから、弓太刀も3分の1にしないとマズいんだけど、一般的に店頭に並ぶものは太刀が大きすぎたり、弓が小さすぎたりすることがあるんです。だからちゃんと合わせて作りましたね」
一方、贈られた側の拓実さんは、物心がついてようやく五月人形の存在に気がつきます。
拓実「幼いころは『飾ってあるな』というくらいで、深いところまで意識してなかったんですけど…」
美次「小学生の時は、先生が家庭訪問で玄関先まで来ると、わざわざ上の階まで連れて行ってこの五月人形を見せていたよ(笑)」
拓実「それは覚えてないけど(笑)でもやっぱり、かっこいいなとは思っていました。中学3年になって進路を決める頃にはもう『甲冑師になろう』と決めていましたね。専門的なものづくりを勉強するために、都立工芸高校に進学して、卒業後にこの仕事を始めました」
鞆美さんと美次さんが手がけた初節句の鎧は、今もガラスケースに入れて応接間に飾られています。20年以上が経ち、見た目にも変化が現れてきました。
美次「飾っているうちに、日に焼けて変色してしまった部分もあるんです。貼り替えることもできるんですが、拓実は『このままがいい』と言って」
拓実「それだけ年月が経ったということだから、この鎧の歴史として残しておきたいんですよね」
人同士のつながりの根底にある「家族の絆」
拓実さんの五月人形についてお話を伺ったあとは、工房で実際の作業を見せてもらえることに。
甲冑作りが始まるのは朝9時から。昼休憩を1時間挟み、だいたい鞆美さんは17時まで、美次さんは18時まで、拓実さんは20時までと、作業時間はバラバラ。11月から4月の忙しい時期は、夕食を摂って再び作業に戻ることもあります。
一般的な五月人形作りのほか、「この武将の鎧を作ってほしい」というオーダーを受けることも。鞆美さんは独立当時、自分の足で甲冑の作りや背景などを調べに回っていたとか。博物館に展示があれば、毎朝お弁当を持っていき、閉館になるまでスケッチしていたといいます。
拓実「祖父は、技法だけでなく、時代背景に至るまで深い知識があって、いつも圧倒されています。祖父の技術を受け継いだ父も、一緒に働いてみてそのすごさがわかりましたね。作業が丁寧なのに早くて、一緒に始めたのに全然追いつかない。2人とも職人として尊敬しています」
鞆美さんと美次さんは、拓実さんの職人ぶりをどう見ているのでしょうか。
鞆美「仕事はとても丁寧だけど、そのぶん時間がかかっているなと感じますね。まだ鎧は手がけてないし、ヤスリの使い方なども覚えていかないと。3人それぞれが、同じものを同じように作れるようにならないといけないので」
美次「親父は自分の力でここまで基盤を作ってきたので、職人として『1から10まで全部できて一人前』という考え方なんです。僕としては、まずは生計を立てるのに必要な技術や知識を蓄えてもらえたらなと。そのうえで、どんなものにも決して手を抜かない職人になってほしいですね」
それにしても、加藤さん一家は家でも仕事場でもずっと一緒の生活です。寝ても覚めても仕事の話…ということにならないでしょうか。
鞆美「特に意識して日常と仕事をわけているわけでもないんですが、工房を離れたらあまり仕事の話はしないですね」
拓実「仕事中にわからないことがあったら、その場で聞いて終わりですからね。仕事が終わったらもう、家族としてコミュニケーションを取っています」
美次「オンとオフの切替ができるよう、それぞれ趣味を持つようにしています。あとは全員釣りが好きなので、休みが合えばこの辺りでハゼ釣りに出かけたりしていますね」
仕事場では「職人」として先人に学び、また新米に教える立場。でも、家に戻れば「家族」というフラットな立場に戻る。仕事は仕事、家は家と割り切ることが、職人としてのコミュニケーションを円滑に進める秘訣かもしれません。
ただ、先ほど見せてもらった拓実さんの五月人形は、「職人」と「家族」が混じり合って生まれたものではないでしょうか。生まれてきた拓実さんの顔を思い浮かべ、工房で作業する美次さんと鞆美さん。自分に贈られた五月人形の精緻さに、父と祖父の思いを汲み取る拓実さん。職人同士のつながりの根底には、家族の絆があるのだと感じました。
持てる技術をすべて注いで、子を思う気持ちに応える
時代とともに住環境も変わり、五月人形の大きさも2分の1サイズから3分の1サイズへと売れ筋が変わっていったそう。とはいえ、ここしばらくは需要が落ち込んでいるといいます。家族の形が変わりゆくなか、いま、3人が甲冑作りに込める思いを聞きました。
拓実「自分が鎧を見て『かっこいい』と思ったように、お子さんや親御さんに『かっこいいな』『細かくて綺麗だな』と感じてもらえるようなものを作りたいですね」
鞆美「日本の鎧は1000年以上前のものも残っている、貴重な存在なんです。それぞれの鎧兜が持つ背景に興味をもって、飾ってもらえたらうれしいです」
美次「お子さんやお孫さんを思う気持ちに応えられるよう、我々は自分たちが持つ技術をすべて注いで作っています。とはいえ、時代も変わっていますから、これからは作り手の側も新しいものを生み出していく必要があるでしょうね。自分たちでできることを考えながら、拓実の世代へと引き継いでいければと思います」
五月人形がとりもつ、子どもを思う気持ちの「リレー」
加藤さん一家にお話を伺い、五月人形には子どもの健やかな成長を願う思いが込められていることや、職人が心血を注いで作り上げた結晶であることを改めて知ることができました。
そして、思い出したことがあります。筆者も小さいころ、五月人形を飾ってもらっていたんです。
鎧兜だけでなく、人形も一緒でした。確か「大将くん」という名前で呼ばれてたっけ。当時のことを電話で実家の母に聞いてみました。
母「あぁ、あの人形ね。初節句だからって、おじいちゃんが買ってきたのよ。初孫だったから相当喜んでね。みんながあんたのことを想ってくれたってことよ。そうそう、あれまだ家にあるから、あんたのとこに送るね」
…というわけで、40年以上の時を越え、我が家に「大将くん」がやってきました。
親子2世代の五月人形と兜飾りが揃うことになるなんて。祖父母や両親が僕の成長を願い、両親や僕ら夫婦が息子の成長を願う。五月人形という形で願いがリレーしていると思うと、なんだかじんとくるものがあります。
学校から帰ってきた息子は、五月人形が増えていることにびっくり。これはパパが子どもの時にもらった人形なんだよ、と教えます。みんなが「パパが強く育つように」とお祈りしてくれたんだ。そしてこの兜は、みんなが「君が強く育つように」と祈ってるってことなんだよ。おんなじだね。
そして、五月人形は子どもを守ってくれる神様なんだって、と伝えると……。
拝んでいました。いや確かに神様とは言ったけども…。
でも、これから5月が近づくたび、今までと違った気持ちで兜飾りを出すことになりそうです。僕の両親が人形を保管していたのも、子を思う気持ちあってのことでしょう。
息子が親になった時に、リレーがまたつながっていったらいいなと思います。
編集:ノオト
撮影:栃久保誠
・当記事に掲載の情報は、執筆者・取材対象者の見解で、ライオン株式会社の見解を示すものではありません。
書いた人
井上マサキ
1975年宮城県生まれ。ライター。インターネット媒体のほか、コーポレートサイトや企業広報など幅広く執筆。また「路線図マニア」としてイベント登壇やメディア出演など精力的に活動。共著書に『たのしい路線図』(グラフィック社)、『日本の路線図』(三才ブックス)
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